震災雑感 手段が目的化した時

医師になって10年ぐらいの頃、赴任した病院の外科部長はゴルフが好きで、練習も熱心な方でした。

朝の回診前、肩を回しながら「昨日は調子良くて、打ちっ放しで1000発位打ったかな、で今日はちょっと肩が張ってる」というようなことがよくありました。

この場合、目的はフォームや軌道の調整で打球数は手段だったはずです。このような本来の目的を見失って、大学入学やお金が目的となっている人はよく見かけます。

今回の原発問題でもエネルギー調達の多様性や安定性の1つとしての原発を、その建設に伴う利権を目的化した人たちによって引き起こされた面もあると思います。

今、推進することが是とされている風力発電においても、補助金が目的となり問題点が隠されようとしているという、正に原発で起きたことが繰り返されている実情が、「風力発電の不都合な真実―風力発電は本当に環境に優しいのか?」(武田 恵世著)の中で述べられています。

これまでの医師生活を振り返ると、患者さんのためであるべき治療が、組織にとっては手術や治療法が目的になる場合があることも否定できません。

一方、医療が不完全なために生活の質が伴わない、患者さんに望まれない延命もあることを考えると、医療や社会保障は本来の目的を取り違えていないか、と考えさせられます。

更に今日の政治情勢を見るとき、ネット環境が整い、SNS等が発達し直接民主制も可能な今、代議員制は必要なのか、その利権に群がる人のための目的化した制度ではないかと思われてならない。

演壇にしがみつく映像そのままに議員の座にしがみつく政治屋を見ると、この国の将来が絶望的に思われる。

この人たちによってこの国が破壊されるのを阻止し活力を取り戻すためには、全てのものを本来の目的から問い直し、憲法も例外とせず、この国と子孫のために国や社会の制度、我々の価値観を今こそ再考すべき時と考える。

2007年10月01日